SBTNフレームワークにおけるエコシステムサービス経済価値評価の役割:科学的根拠に基づいた目標設定の実践
はじめに
近年、企業は気候変動リスクに加え、生物多様性の損失や生態系の劣化といった自然資本に関わるリスクへの対応が強く求められています。これまでの環境対策が主に事業活動の負荷低減に焦点を当ててきたのに対し、自然資本の劣化はサプライチェーン全体に影響を及ぼし、事業の継続性そのものを脅かす可能性が認識されるようになってきました。
このような背景のもと、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)に続き、企業が自然に対して科学的根拠に基づいた目標(Science Based Targets for Nature, SBTN)を設定するためのフレームワークが登場し、注目を集めています。SBTNは、パリ協定における1.5℃目標と同様に、地球の生態系の健全性を維持・回復するために、企業が自らの影響と依存を評価し、具体的な行動目標を設定することを促します。
SBTNの目標設定プロセスでは、科学的根拠に基づいたベースラインの特定、影響・依存の測定、そして目標設定が不可欠です。このプロセスにおいて、「生態系サービスの経済価値評価」が重要な役割を果たします。単に生態系の状態を把握するだけでなく、その変化が企業にもたらす経済的なリスクや機会を可視化することで、より説得力のある目標設定や事業戦略への統合が可能となるからです。
本記事では、SBTNフレームワークの概要に触れつつ、エコシステムサービス経済価値評価がSBTN目標設定の各段階でどのように貢献できるのか、そしてその実践的な活用方法について解説します。
SBTN(Science Based Targets for Nature)の概要
SBTNは、企業が生物多様性や生態系に関する科学的データに基づき、自社の事業活動が生態系に与える影響を削減し、依存からのリスクを管理・低減するための目標を設定することを支援するイニシアチブです。SBTNの目標設定プロセスは、以下の6つのステップで構成されます。
- Assess(評価・特定): 事業が自然に与える影響と依存を特定し、リスクと機会を評価します。この段階では、事業の地理的な場所、バリューチェーン全体における活動、そしてそれらが関わる生態系のタイプなどを考慮します。
- Interpret & Prioritize(解釈と優先順位付け): 特定された影響・依存に基づき、どの課題や場所に優先的に取り組むべきかを判断します。科学的なデータに加え、ステークホルダーの関心なども考慮されます。
- Measure(測定): ベースラインを設定し、事業活動が自然に与える現在の影響や依存の程度を定量的に測定します。これは目標設定の基礎となります。
- Set(設定): 科学的根拠に基づき、具体的な目標(ターゲット)を設定します。目標は、土地、淡水、海洋、種、気候変動といった自然界のシステムに合わせたものとなります。
- Act(行動): 設定した目標を達成するための具体的な行動計画を実行します。事業戦略、サプライチェーン管理、投資判断などに目標を統合します。
- Track(追跡): 目標達成に向けた進捗をモニタリングし、必要に応じて目標や行動を修正します。
このプロセスの特に前半、「Assess」と「Measure」の段階で、エコシステムサービスに関する情報やその経済価値評価が重要な役割を担います。
SBTNにおけるエコシステムサービス経済価値評価の役割
エコシステムサービス経済価値評価は、SBTNの各ステップで多角的な貢献が可能です。
1. Assess(評価・特定)フェーズでの貢献
- 自然関連リスク・機会の特定: 事業活動が依存または影響を与える生態系サービスを特定し、それらが事業にもたらす潜在的なリスク(例:水質悪化による製造コスト増加、生物多様性損失による供給途絶)や機会(例:健全な生態系による洪水リスク軽減、森林保全による炭素クレジット創出)を評価します。経済価値評価を用いることで、これらのリスクや機会が事業の財務状況に与える影響を定量的に把握しやすくなります。
- バリューチェーン全体での影響・依存評価: 自社の直接的な事業所だけでなく、サプライチェーン全体にわたる生態系サービスへの影響や依存を評価する際に、定量的・経済的な評価手法は複雑なバリューチェーンを比較・分析する上で有効な情報を提供します。
2. Measure(測定)フェーズでの貢献
- ベースライン設定: 事業活動の影響を受ける生態系サービスの現状価値を経済的に評価することで、目標設定の際の基準となる「ベースライン」を明確に設定できます。例えば、開発プロジェクト前の湿地帯が提供する洪水調節や水質浄化といったサービスの経済価値を算出することが考えられます。
- 影響の測定と目標設定指標: 事業活動によって生態系サービスがどのように変化し、それがどの程度の経済的価値の損失や増加をもたらすかを測定できます。この経済的変化をSBTN目標の達成度合いを示す指標の一部として活用することが可能です。例えば、「〇〇の生態系サービスが生み出す経済価値を△△年までにX%向上させる」といった目標設定が考えられます。
3. Act(行動)および Track(追跡)フェーズでの貢献
- 対策の優先順位付けと効果評価: 設定した目標達成に向けた様々な対策(例:敷地の緑化、排水処理の高度化、サプライヤーへの環境基準導入)の中から、最も効果が高く、かつ経済的なリターン(リスク回避によるコスト削減、新たな機会創出)が大きいものを優先的に選択するための判断材料となります。対策実施後の効果を経済価値の変化としてモニタリングすることも可能です。
- 進捗の定量的な把握: エコシステムサービス価値の変化を定期的に評価することで、SBTN目標に向けた進捗を定量的に把握し、PDCAサイクルを回すための重要なデータを得られます。
経済価値評価を加えることで、自然関連の課題が単なる環境問題としてだけでなく、経営における重要なリスク・機会として認識されやすくなり、社内外の関係者の理解と協力を得やすくなるというメリットがあります。
生態系サービス経済価値評価の手法とSBTNへの応用
SBTNでは、事業活動が自然に与える「影響(Impact)」と「依存(Dependency)」の評価が求められます。これらを評価し、さらに経済的な価値に換算するために、様々な手法が用いられます。
評価手法の概要
- 定性的評価: 専門家の判断や既存情報のレビューに基づき、影響や依存の程度を「高」「中」「低」などで評価します。簡易的なスクリーニングに適しています。
- 定量的評価: 生態系の状態指標(例:生物多様性指数、水質データ)や、生態系サービスの物理的な量(例:炭素貯蔵量、供給可能な水量)を測定します。GISやリモートセンシングデータが活用されます。
- 経済的評価: 定量的に評価された生態系サービスの物理的な量を、金銭的な価値に換算します。主に以下のような手法があります。
- 費用法: 生態系サービスが失われた場合に代替サービスを提供するためにかかる費用(例:自然の洪水調節機能が失われた場合の堤防建設費用)。
- 回避費用法: 生態系サービスが提供する機能によって回避されるコスト(例:湿地による水質浄化機能によって回避される水処理費用)。
- 支払い意思額法: その生態系サービスに対して人々が支払っても良いと考える金額(例:アンケート調査に基づくレクリエーション価値)。
- 市場価格法: 生態系サービスが市場で取引されている場合の価格(例:森林による木材生産価値)。
SBTNの「Measure」フェーズでは、特に定量的評価と経済的評価が重要となります。経済価値評価は、定量的な変化をビジネス上の意思決定に直結する情報に変換する役割を果たします。
データ・ツールの活用
SBTNに関連する評価を行う際には、以下のようなデータやツールが活用されます。
- 地理情報システム(GIS): 生態系の空間情報を管理・分析し、事業活動との重なりや影響範囲を特定するのに役立ちます。
- リモートセンシングデータ: 衛星データや航空写真から植生の状態、水域の変化、土地利用状況などを把握し、広範囲な生態系変化のモニタリングに活用できます。
- 生態系サービスモデリングツール: 特定の生態系サービス(例:洪水調節、炭素貯蔵)が、土地利用や気候変動シナリオによってどのように変化するかを予測するモデルです。InVESTやARIESなどのツールがあります。
- 生態系サービス価値データベース: 特定の生態系タイプや地域における生態系サービスの平均的な経済価値を示すデータベースです。TEEBデータベースなどが知られています。
- 生物多様性データ: IUCNレッドリスト、保護区域情報、地域ごとの生物相リストなど。
これらのデータやツールを組み合わせることで、SBTNで求められる科学的根拠に基づいた評価と目標設定が可能になります。
建設・不動産事業におけるSBTNとエコシステムサービス評価の実践
建設・不動産事業は、土地利用の変更や資材の使用、水資源の利用など、SBTNが扱う「土地」「淡水」「汚染」「種」といったカテゴリーに直接的に関わる影響や依存が大きい産業です。したがって、SBTNへの対応は非常に重要となります。
建設・不動産事業者がSBTN目標を設定する際に、エコシステムサービス評価は以下の点に貢献できます。
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プロジェクトレベルの目標設定:
- ベースライン評価: 開発予定地の現状の生態系サービス(緑地の提供する大気浄化、雨水涵養機能、生物の生息空間としての価値など)を経済的に評価し、開発による影響を定量的に把握します。
- 目標設定: 例えば「開発後も敷地全体で提供される生態系サービスの経済価値を開発前と同等以上に維持・向上させる(ネットポジティブ)」といった目標を設定する際の根拠となります。
- 設計への反映: 生態系サービスの経済価値向上に貢献する設計要素(例:屋上緑化、壁面緑化、雨庭、地域固有種の植栽、透水性舗装)を導入する際の費用対効果を評価し、最適な設計を選択する判断材料となります。
- 事例: ある建設プロジェクトで、敷地内の緑地化による大気質改善効果とレクリエーション価値の向上を経済評価し、その価値増加分をSBTN目標の進捗として報告することが考えられます。また、雨水貯留施設の設置による洪水調節機能の経済価値を評価し、地域の自然災害リスク低減への貢献を示すことも可能です。
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ポートフォリオレベルの目標設定:
- 複数の開発プロジェクトや所有資産全体における生態系サービスへの影響と依存を評価し、ポートフォTNFDリスク評価やSBTN目標設定の全体像を把握します。
- ポートフォリオ全体の自然資本価値のベースラインを設定し、「ポートフォリオ全体の自然資本ネットポジティブ」といった目標を設定する際の根拠とします。
- 影響が大きい地域や、生態系サービス価値が高い場所を特定し、優先的に保全・回復・創造の取り組みを行うべき場所を特定します。
- 事例:不動産ポートフォリオを持つ企業が、保有物件の立地する地域の生態系サービスの質と提供価値を評価し、劣化が進んでいる地域や、気候変動リスク(洪水など)が高い地域にある物件を特定します。これらの物件に対し、改修時に緑化を進める、雨水管理システムを導入するといった対策を優先的に行う判断に、エコシステムサービス評価の結果を活用することが考えられます。
このように、エコシステムサービス経済価値評価は、建設・不動産事業者がSBTNで求められる科学的根拠に基づいた目標設定を行い、具体的な行動を計画・実行し、その成果を評価する上で非常に有効なツールとなり得ます。
評価結果の活用と対外報告
SBTN目標は、単に設定するだけでなく、企業のサステナビリティ戦略や事業戦略に統合されることが重要です。エコシステムサービス評価の結果は、この統合を強力に後押しします。
- 経営戦略への統合: 経済価値評価によって可視化された自然資本関連のリスクと機会は、経営層の意思決定に直接的に影響を与えやすくなります。新たな事業機会(例:自然ベースソリューションの提供)の特定や、リスクの高い事業からの撤退・転換といった戦略的な判断に活用されます。
- 投資判断への活用: プロジェクトへの投資判断において、経済的なリターンだけでなく、生態系サービス価値の維持・向上への貢献度を評価軸に加えることができます。費用便益分析(Cost-Benefit Analysis)に生態系サービス価値を含めることで、より包括的な投資効果の評価が可能となります。
- ステークホルダーエンゲージメント: 評価結果を分かりやすく示すことで、投資家、顧客、地域社会といった多様なステークホルダーに対して、企業の自然資本への取り組みの意義や成果を効果的に伝えることができます。特に経済価値という共通言語を用いることで、環境問題に関心が薄い層にも取り組みの重要性を理解してもらいやすくなります。
- サステナビリティ報告書での記載: SBTN目標の設定状況、進捗、そして目標達成に向けた取り組み内容や成果は、TNFD提言への対応と合わせて、企業のサステナビリティ報告書(CSR/ESG報告書、統合報告書)において重要な開示項目となります。エコシステムサービス評価によって得られた定量的データや経済価値は、報告の信頼性や説得力を高める根拠となります。目標設定の根拠、ベースラインの定義、目標達成度の指標として評価結果を記載することが考えられます。
まとめと今後の展望
SBTNフレームワークは、気候変動目標と同様に、企業が自然に対して科学的根拠に基づいた野心的な目標を設定することを促す、今後の自然関連経営の標準となり得る重要な枠組みです。
このSBTN目標設定プロセスにおいて、生態系サービスの経済価値評価は不可欠なツールです。事業活動の影響と依存を定量化し、さらに経済的な価値に換算することで、リスクと機会を経営層に分かりやすく示し、ビジネス上の優先順位付けや意思決定を支援します。特に土地利用に関わる影響が大きい建設・不動産事業にとっては、プロジェクトレベルからポートフォリオレベルまで、SBTN目標設定と達成に向けた取り組みを進める上で、エコシステムサービス評価の活用は避けて通れない道となるでしょう。
今後は、SBTNフレームワークの普及に伴い、評価手法やデータの標準化、そして様々な産業や地域における実践事例の蓄積が進むことが予想されます。企業は、早期にエコシステムサービス評価の手法やツールに関する知見を蓄積し、SBTNへの対応力を高めることで、自然関連リスクを機会に変え、持続可能な企業価値向上を実現していくことが求められています。
「エコシステムサービス評価ナビ」では、SBTN対応に役立つ評価手法、ツール、事例などの情報を提供し、皆様の自然関連経営の推進を支援してまいります。