変化する政策・規制環境下でのエコシステムサービス評価:要求への対応とビジネス機会創出
はじめに:変化する政策・規制環境と生態系サービス評価の重要性
近年、気候変動への対応に加え、生物多様性の損失や生態系劣化に対する国際的・国内的な危機感が急速に高まっています。これに伴い、企業活動が生態系に与える影響や、企業が生態系サービスから受ける恩恵(自然資本への依存・影響)に対する政策・規制要求やステークホルダーからの関心が増大しています。
特に、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)の提言に代表されるように、企業に対して自然関連のリスクと機会の評価・開示を求める動きが本格化しています。また、生物多様性に関する新たな国家戦略の策定や、緑のインフラ、自然を基盤とした解決策(NbS: Nature-based Solutions)といった政策が推進されています。
このような変化の時代において、事業会社が持続的に成長し、社会からの信頼を得るためには、自社の活動と生態系の関わりを正確に理解し、適切に対応していくことが不可欠です。ここで重要な役割を果たすのが、「生態系サービスの経済価値評価」です。生態系サービス評価を通じて、自社の事業活動が自然資本に与える影響や依存度を「見える化」し、その経済的な価値を算定することで、変化する政策・規制への適切な対応と、新たなビジネス機会の創出につなげることが可能になります。
本記事では、変化する政策・規制環境において、生態系サービスの経済価値評価がどのように役立つのか、具体的な手法、活用事例、そして対外報告の方法について解説いたします。
主な政策・規制動向と生態系サービス評価の関連性
事業会社が直面する主要な政策・規制動向と、生態系サービス評価がどのように関連するかを見ていきます。
1. 自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)
TNFDは、気候変動に関するTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)に倣い、企業や金融機関に対し、自然関連のリスクと機会について財務情報として開示することを推奨しています。TNFDフレームワークの中心にあるのが、企業活動の自然資本への依存と影響を評価する「LEAP」アプローチです。
- Locate(特定): 事業活動と自然との接点を特定。
- Evaluate(評価): 依存と影響、リスクと機会を評価。生態系サービス評価は、この段階で依存や影響の大きさを定量化し、経済的な価値として捉える上で有効な手法となります。
- Assess(評価): リスクと機会の重要性を評価。経済価値評価は、自然関連のリスク・機会が事業の財務に与える潜在的な影響を具体的に示す指標を提供します。
- Prepare(準備): 開示準備。評価結果は、TNFD推奨開示項目(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)における分析の根拠となります。
生態系サービスの経済価値評価は、特にEvaluateおよびAssessの段階で、自然関連のリスク(例: 水源劣化による操業停止リスク、生物多様性損失に伴う風評リスク)や機会(例: 生態系再生によるコスト削減、NbSによる新たな収益機会)を定量化し、財務への影響を考察するための強力なツールとなります。
2. 生物多様性に関する国家戦略と関連法規
多くの国で、生物多様性の損失を食い止め、回復させるための国家戦略や法規制が強化されています。これには、事業活動が生態系に与える影響を評価する環境アセスメントにおける生物多様性の考慮、開発行為に伴う生態系への影響を最小化し、オフセットやインセット(同一地域内での相殺・回復)を行うことへの期待などが含まれます。
生態系サービス評価は、開発事業等が生態系に与える影響(例: 森林伐採による水源涵養機能の低下)を経済的な損失として定量化し、事業の環境負荷をより具体的に示すことに役立ちます。また、オフセットやインセットとして実施する自然再生プロジェクトが提供する生態系サービスの価値を算定することで、事業の生物多様性保全への貢献度を経済的な視点から示すことが可能になります。
3. 緑のインフラ・自然を基盤とした解決策(NbS)の推進
気候変動への適応や防災、都市の快適性向上などを目的に、緑地や水辺などの自然をインフラとして活用する「緑のインフラ」やNbSへの注目が高まっています。これらの取り組みは、洪水調節、水質浄化、暑熱緩和、生物多様性保全など、多様な生態系サービスを同時に提供します。
生態系サービスの経済価値評価は、緑のインフラやNbSプロジェクトがもたらす複数の便益を統合的に評価し、「投資対効果」を算定する上で不可欠です。例えば、都市公園の経済価値評価は、レクリエーション価値、健康増進効果、大気浄化効果、ヒートアイランド緩和効果などを合算することで、その社会的な価値を具体的に示すことができます。これは、公共事業の採択判断や、民間事業者によるNbSへの投資判断を支援します。
4. 投資家からの要求とESG評価
ESG投資が拡大する中で、投資家は企業の環境リスク管理や持続可能性への取り組みを重視しています。自然資本や生物多様性に関する情報は、投資判断の重要な要素となりつつあります。
生態系サービス評価は、企業が自然資本に配慮した事業活動を行っていること、自然関連のリスクを適切に管理していること、あるいは自然資本の保全・回復に貢献していることを定量的に示す根拠となります。評価結果をESG評価機関や投資家に効果的に伝えることは、企業のESG評価向上や資金調達(グリーンボンド、サステナビリティリンクローンなど)において有利に働く可能性があります。
政策・規制要求に応えるための評価手法とツール
政策・規制要求に応えるためには、目的に応じた適切な生態系サービス評価手法を選択し、信頼性の高いデータを用いて評価を実施することが重要です。
主な評価手法
生態系サービスの経済価値評価には、様々な手法があります。大きく分けて、市場を通じた価値を捉える方法と、市場を通さない価値を捉える方法があります。政策・規制対応においては、評価対象となる生態系サービスや、求められる精緻さ、利用可能なデータによって適切な手法を選択する必要があります。
- 市場価格法: 取引市場が存在する生態系サービス(例: 林産物、水産物)の市場価格に基づいて価値を評価する方法です。
- 費用法: 生態系サービスが代替できる人間の活動やインフラにかかる費用(例: 自然の水質浄化機能の代替としての水処理施設のコスト)に基づいて評価する方法です。回避費用法(生態系劣化を回避するためにかかる費用)や代替費用法(生態系サービスを人工物で代替する費用)があります。
- ヘドニック法: 環境の質(生態系サービスの享受度)が、地価や賃料、賃金といった市場取引される財・サービスの価格に反映されることを利用して価値を評価する方法です。
- 仮想評価法(CVM: Contingent Valuation Method): 市場が存在しない生態系サービスの価値を、アンケート等を通じて人々が支払っても良いと考える金額(WTP: Willingness To Pay)や、失われたサービスに対して受け入れても良いと考える金額(WTA: Willingness To Accept)を直接尋ねることで評価する方法です。
- トラベルコスト法: 特定の自然地(公園、景勝地など)を訪問するために人々が費やす旅費や時間コストから、その場所が提供するレクリエーションサービスの価値を評価する方法です。
TNFD対応におけるリスク評価であれば、特定の自然災害(例: 洪水)を抑制する生態系サービス(例: 森林や湿地)の消失が、事業の物理的資産に与える損害を回避するためにかかる代替費用や回避費用といった費用法が有効な場合があります。一方、緑のインフラが地域住民にもたらす便益(健康、快適性など)を評価し、社会的な合意形成や投資正当化に用いる場合は、仮想評価法やヘドニック法が用いられることがあります。
評価を支援するツールとデータ
信頼性の高い生態系サービス評価を行うためには、正確なデータと、それを分析・可視化するためのツールが不可欠です。
- GIS(地理情報システム): 土地利用、植生、水系などの地理空間情報を管理・分析し、特定のエリアにおける生態系の分布や状態を把握するために広く活用されます。生態系サービスのマッピングにも有効です。
- リモートセンシング: 衛星データや航空写真を用いて、広範囲の植生被覆、地表面温度、水質などの環境情報をモニタリングします。データの継続的な収集や、アクセスが困難なエリアの評価に役立ちます。
- 生態系モデリングツール: 生態系のプロセス(水循環、炭素固定など)や、人間活動が生態系に与える影響をシミュレーションするためのツールです。将来予測や、対策の効果評価に用いられます。
- 生態系サービス評価ツール/フレームワーク: TEEB、CICES(Common International Classification of Ecosystem Services)、NCA(Natural Capital Accounting)といった国際的なフレームワークや、それに基づいた評価ツールが存在します。これらのフレームワークは、評価対象の特定や整理、評価プロセスの標準化に役立ちます。
- 各種データベース: 環境統計、社会経済データ、市場価格データなど、評価に必要な基礎データを提供するデータベースの活用も重要です。
政策・規制要求に応じた評価を実施する際には、これらのツールやデータを組み合わせ、評価の透明性や再現性を高めることが求められます。
建設・不動産事業における政策対応とエコシステムサービス評価
建設業や不動産業界は、土地利用の変化を通じて自然資本と密接に関わっています。変化する政策・規制環境下で、生態系サービス評価はこれらの業界にとって特に重要です。
- 環境アセスメントの高度化: 開発計画における環境アセスメントにおいて、生物多様性への影響評価だけでなく、その影響が生態系サービスの質や量にどう影響し、地域社会や経済にどのような損失をもたらすかを経済価値として示すことが、より包括的な影響評価として求められる可能性があります。
- 緑地・生物多様性関連規制への対応: 都市開発における緑地面積率や生物多様性保全に関する条例に対し、単なる面積確保だけでなく、創出・保全する緑地が生態系サービス(例: 大気浄化、ヒートアイランド緩和、レクリエーション機会)をどの程度提供するかを評価し、その経済的な価値を示すことで、規制遵守に加え、プロジェクトの付加価値を説明できます。
- グリーンファイナンスの活用: グリーンボンドやサステナビリティリンクローンなど、環境配慮型の資金調達において、建設プロジェクトや不動産開発がもたらす環境便益(例: 生態系再生、緑地創出による炭素吸収量増加)を生態系サービス評価を通じて定量化・経済価値換算し、投資家への報告に活用することが考えられます。
- 地域との対話と合意形成: 開発計画に対する地域住民や行政との対話において、プロジェクトが提供する生態系サービスの価値(例: 公園整備による憩いの場の提供、雨水浸透機能向上による防災効果)を経済価値として示すことで、プロジェクトの地域貢献度を具体的に説明し、円滑な合意形成につなげることが期待できます。
- 将来予測とリスク管理: 気候変動による自然災害リスク(洪水、土砂崩れ等)の増加を踏まえ、事業地周辺の生態系(森林、河川等)が提供する防災・減災サービスの劣化リスクを評価し、その経済的な影響を予測することで、事業のレジリエンスを高めるための対策(NbSの導入など)の必要性や効果を検討できます。
これらの事例のように、建設・不動産事業において生態系サービス評価を導入することは、政策・規制への受動的な対応にとどまらず、プロジェクトの環境・社会的な価値を「見える化」し、ステークホルダーとの関係強化、新たなビジネス機会の創出、そして持続可能な事業運営を実現するための戦略的なアプローチとなります。
評価結果の活用と対外報告(サステナビリティ報告書等)
生態系サービス評価の結果を、政策・規制要求に応える形で効果的に活用し、対外的に報告することは、企業の透明性向上と信頼獲得に不可欠です。
活用方法
- リスク管理への統合: 評価によって特定された自然関連リスク(例: 水資源枯渇リスク)を、既存の企業リスク管理フレームワークに組み込み、対策の優先順位付けに活用します。
- 意思決定への反映: 新規事業や投資判断の際に、財務的視点だけでなく、生態系サービスへの影響や依存度、それらの経済的な価値を考慮に入れることで、より持続可能な意思決定を行います。NbSへの投資判断はその典型例です。
- サプライチェーン管理: サプライヤーが生態系に与える影響を評価し、その経済的な価値を把握することで、サプライチェーン全体での自然関連リスクを管理し、改善を促します。
- プロダクト・サービス開発: 生態系サービスの価値を向上させるようなプロダクトやサービス(例: 環境配慮型建材、緑化技術)の開発につなげます。
対外報告(サステナビリティ報告書等)
サステナビリティ報告書(CSR/ESG報告書)において、生態系サービス評価の結果をどのように記載するかは、政策・規制要求(特にTNFDなど)への対応として非常に重要です。
- 評価の目的と範囲の明記: なぜ生態系サービス評価を実施したのか、評価の対象範囲(地域、事業活動、特定の生態系サービス)を明確に記載します。
- 採用した手法とデータの詳細: どのような評価手法(CVM、費用法など)を用いたのか、使用したデータの種類や出典、評価に際して行った前提条件などを透明性高く開示します。これにより、報告の信頼性が向上します。
- 評価結果の概要と解釈: 算定された生態系サービスの経済的な価値を示すとともに、その結果が事業活動のどのような依存や影響を示唆しているのか、リスクや機会とどのように関連するのかを具体的に記述します。金額だけでなく、それが持つ意味合いを丁寧に説明することが重要です。
- 評価結果を踏まえた取り組み: 評価結果を受けて、企業がどのようなリスク低減策、機会追求策、保全・再生活動などを実施しているのか、具体的なアクションや目標を記載します。
- TNFD推奨開示項目への対応: TNFDに沿った開示を目指す場合、評価結果をガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標といった推奨開示項目に紐づけて整理し、報告します。例えば、「戦略」の項目では、評価結果が事業戦略や財務計画にどのように統合されているかを説明します。
生態系サービス評価結果の対外報告は、企業の環境への取り組みを定量的に示し、ステークホルダーからの信頼を得るための重要な手段です。政策・規制要求を意識しつつ、自社の状況や取り組みを正直かつ具体的に伝えることが求められます。
まとめと今後の展望
変化する政策・規制環境は、事業会社に生態系への配慮をより一層強く求めています。TNFDに代表される自然関連開示の動きや、生物多様性保全・緑のインフラ推進といった政策は、企業が自然資本との関わりを「見える化」し、経営意思決定や対外報告に組み込むことを不可欠としています。
生態系サービスの経済価値評価は、これらの政策・規制要求に応えるための強力なツールです。適切な評価手法やツールを活用することで、事業活動の自然資本への依存・影響を定量的に把握し、経済的な価値として捉えることが可能になります。これにより、自然関連のリスクと機会を具体的に特定し、リスク管理、投資判断、地域との対話、そしてサステナビリティ報告における透明性向上につなげることができます。
特に建設業や不動産業界にとっては、開発行為や資産が生態系に与える影響やそこから得られる恩恵が大きいため、生態系サービス評価の戦略的な活用は、政策遵守、プロジェクト価値向上、そして持続可能な競争力強化に直結します。
今後、生態系サービス評価に関する政策・規制はさらに進化していくと予想されます。事業会社は、これらの動向を注視しつつ、評価手法やツールに関する知見を深め、自社の事業プロセスへの統合を継続的に進めていくことが重要です。生態系サービスの価値を経営に組み込むことは、単なる規制対応ではなく、企業のレジリエンスを高め、社会からの期待に応え、持続的な成長を実現するための不可欠な要素となるでしょう。