生態系サービス評価におけるベースライン設定と目標設定:自然資本のネットポジティブ実現に向けたビジネス戦略
生態系サービス評価におけるベースライン設定と目標設定の重要性
企業活動が自然資本および生態系サービスに与える影響を適切に評価し、持続可能な事業運営を目指す上で、エコシステムサービス評価は不可欠なプロセスです。この評価プロセスにおいて、特に重要な要素となるのが「ベースライン設定」と、それに基づく「目標設定」です。
事業活動が生態系に与える影響や、そこから得られる恩恵(生態系サービス)の変化を正確に把握するためには、比較の基準となる「ベースライン」を明確に定める必要があります。このベースラインが、影響評価の出発点となり、損失や劣化、あるいは回復・向上の度合いを定量的に測定するための基盤となります。
また、サステナビリティ目標の設定においても、ベースラインは極めて重要です。現状の自然資本の状態や生態系サービスのフローを正確に把握することで、事業活動を通じて目指すべき「あるべき姿」とのギャップを特定し、科学的根拠に基づいた、より実効性の高い目標を設定することが可能になります。近年注目されている自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)や、科学的根拠に基づいた自然関連目標設定(SBTN)といった枠組みにおいても、ベースラインの把握と目標設定は中心的な要素となっています。
ベースライン(基準値)設定の手法と考慮事項
ベースライン設定とは、事業活動の影響がなかった場合の自然資本の状態や生態系サービスの供給量を設定することです。これは、事業の開始前、開発前、あるいは特定の対策実施前の状態を指すことが一般的です。ベースライン設定にあたっては、いくつかの重要な考慮事項があります。
- 評価範囲の特定: 評価対象となる地理的な範囲(事業サイト、周辺地域、サプライチェーン全体など)と、評価対象とする生態系サービスの種類を明確に定義します。
- 評価手法の選定: 生態系サービス評価の様々な手法(例:CICES分類に基づく物理量評価、経済価値評価手法など)の中から、目的に応じて適切な手法を選定します。ベースラインの状態を評価する際にも、これらの手法が用いられます。
- データの収集と整備: ベースラインの状態を示すためのデータを収集します。これには、地形データ、植生情報、生物多様性データ、水質・大気質データ、土地利用履歴、気候データなどが含まれます。既存の統計データ、GISデータ、リモートセンシングデータ、フィールド調査など、複数の情報源を活用することが一般的です。建設・不動産開発においては、開発予定地の過去の環境情報や、近隣の類似する環境のデータがベースライン設定に役立ちます。
- 時間軸の考慮: ベースラインは特定の時点での状態を示すものですが、生態系は常に変化しています。気候変動やその他の外部要因による将来の変化予測も考慮に入れることで、より現実的なベースライン設定が可能になる場合があります。
- 参照地域の選定(必要な場合): 事業活動が広範囲に及ぶ場合や、ベースライン時点のデータが不足している場合、生態学的特性が類似する他の地域を参照ベースラインとして設定することも検討されます。
特に建設・不動産事業においては、開発前の敷地の生態系状態をベースラインとすることが基本となります。しかし、過去にすでに開発が行われている土地の場合、過去の履歴を遡って自然な状態を推定したり、周辺の自然環境を参照したりといった工夫が必要となる場合があります。
自然資本のネットポジティブを目指す目標設定
ベースラインが設定できたら、次に事業活動を通じて達成を目指す目標を設定します。近年のサステナビリティの潮流においては、事業活動による環境負荷をゼロにする「ネットゼロ」に加え、生態系を劣化させる影響を上回る回復・再生努力によって、自然資本全体を増加させる「ネットポジティブ」という考え方が重視されています。
目標設定のプロセスには、以下のステップが含まれることが一般的です。
- 評価結果の分析: ベースラインと、事業活動による予測される影響評価の結果を分析し、自然資本や生態系サービスに対する潜在的な損失リスクや回復・創造の機会を特定します。
- 目標レベルの決定: 特定されたリスクや機会に基づき、目指すべき目標のレベルを決定します。これは、単なる損失の最小化に留まらず、回復努力による改善や、新たな自然資本の創造を含む場合があります。具体的な目標としては、「開発前と比較して生物多様性の純増加を目指す(生物多様性ネットポジティブ)」、「流域における水質浄化サービスを維持・向上させる」、「地域に提供されるレクリエーション価値を維持する」などが考えられます。
- 科学的根拠との整合性: 設定する目標が、可能な限り科学的な根拠(例:生態系に関する知見、気候変動予測、流域の hydrological model など)に基づいていることを確認します。SBTNのようなイニシアティブは、科学的根拠に基づいた目標設定のためのガイダンスを提供しています。
- ステークホルダーとの対話: 目標設定プロセスにおいて、地域社会、NGO、専門家、行政機関などのステークホルダーと対話を行うことは有益です。これにより、地域の生態系特性やコミュニティが重視する生態系サービスを考慮した、より包括的で受容性の高い目標を設定することが可能になります。
- 測定可能な指標の設定: 目標の達成度を測るための具体的な測定指標を設定します。これは、ベースライン設定で用いた評価指標と整合性が取れている必要があります。例えば、生物多様性ネットポジティブを目指すなら、種多様性指数や特定の生態系の面積、質の変化などが指標となります。
建設・不動産事業における目標設定の例としては、開発面積に対する緑地率の具体的な目標値設定に加え、単なる緑地面積だけでなく、在来種の導入による生物多様性の向上、雨水貯留機能を持つビオトープの設置による水循環機能の改善など、複数の生態系サービスに関する定量的な目標を設定することが挙げられます。さらに、開発後の管理・モニタリング計画と連携した、長期的な目標設定も重要となります。
設定したベースラインと目標のビジネスへの活用
適切に設定されたベースラインと目標は、単なる環境報告のためのデータに留まらず、企業のビジネス戦略や意思決定に深く統合されるべきです。
- 投資判断: 開発プロジェクトや新規事業への投資判断において、生態系への影響評価と目標達成に向けた費用対効果を考慮することで、長期的な環境リスクを回避し、持続可能な価値創造に資する投資を優先することができます。
- リスク管理: ベースラインと比較して生じる自然資本の損失リスクを定量的に評価し、目標設定を通じてそのリスクを低減・回避する戦略を立てることができます。これは、オペレーショナルリスク、規制リスク、風評リスクなどの軽減に繋がります。
- 機会創出: 自然資本の回復や創造に関する目標を設定し、それを達成するための革新的な技術やビジネスモデルを開発することは、新たな市場機会や競争優位性を生み出す可能性を秘めています。
- 資金調達: グリーンボンドやサステナビリティリンクローンなど、ESGを考慮した資金調達において、明確なベースラインと定量的な環境目標を設定し、その進捗を報告することは、投資家からの信頼獲得に不可欠です。
- 対外報告とステークホルダーエンゲージメント: サステナビリティ報告書(CSR/ESG報告書)において、ベースライン、設定した目標、そしてそれに対する進捗状況を透明性高く開示することは、ステークホルダーに対する説明責任を果たす上で極めて重要です。具体的な目標とその達成に向けた取り組みを示すことは、企業の環境パフォーマンスとコミットメントを効果的に伝えることに繋がります。
まとめと今後の展望
生態系サービス評価におけるベースライン設定と目標設定は、事業活動の自然資本への影響を理解し、持続可能な発展に向けた具体的な行動を計画するための基盤となります。特に自然資本の劣化が深刻化し、TNFDやSBTNのような新たな枠組みが登場する中で、このプロセスはますますその重要性を増しています。
ベースライン設定においては、利用可能なデータと評価手法を最大限に活用し、事業の特性に応じた適切な基準を定めることが求められます。目標設定においては、科学的根拠に基づき、可能な限り定量的な指標を用い、自然資本のネットポジティブを目指す視点を取り入れることが、将来的な企業価値向上に繋がるでしょう。
これらのプロセスを通じて得られた情報は、単なる報告に終わらせず、企業の意思決定、リスク管理、機会創出、そしてステークホルダーとの建設的な対話に積極的に活用していくことが、エコシステムサービス評価を真にビジネスに活かす鍵となります。今後の評価手法やデータ基盤の進化により、より精緻で実効性の高いベースライン設定と目標設定が可能になることが期待されます。