生態系サービス評価による事業リスク管理への統合:自然資本リスク特定から対応まで
はじめに:事業リスクとしての自然資本
近年、企業活動と生態系の関わりが、単なる環境保全の視点だけでなく、事業継続や財務安定性に関わる「リスク」として認識されるようになりました。気候変動の影響、自然災害の激甚化、生態系サービスの劣化といった自然資本に関連する変化は、物理的リスク、移行リスク、システムリスクなど、多岐にわたる事業リスクをもたらす可能性があります。
これらの自然資本に関連するリスクを適切に管理するためには、自社の事業活動が生態系に与える影響や、生態系サービスへの依存度を定量的に評価し、その価値変動が事業にどのような影響を与えるかを把握することが不可欠です。ここで生態系サービスの経済価値評価が重要な役割を果たします。本記事では、生態系サービスの経済価値評価をどのように事業リスク管理プロセスに統合し、自然資本リスクを効果的に特定、評価、対応していくかについて解説します。
自然資本リスクの種類と生態系サービス評価の関連性
事業活動に関連する自然資本リスクは、大きく分けて以下の3つのタイプに分類されます。
- 物理的リスク: 自然資本の劣化や生態系サービスの喪失によって直接的に発生する物理的な影響に関連するリスクです。例えば、森林伐採による地滑りリスクの上昇、湿地の消失による洪水リスクの増加、水資源の枯渇による操業停止リスクなどです。
- 移行リスク: 自然資本や生態系サービスに関連する社会・経済システムの変化によって発生するリスクです。例えば、自然保護に関する規制強化、生態系に悪影響を与える活動に対する評判リスクの高まり、自然関連技術への転換に伴う市場リスクなどが挙げられます。
- システムリスク: 上記の物理的リスクや移行リスクが複雑に相互作用し、より広範な経済・社会システムに影響を及ぼすリスクです。例えば、サプライチェーン全体での自然資本劣化による供給網の寸断リスクなどです。
生態系サービスの経済価値評価は、これらのリスクをより具体的に把握・定量化するために有効です。特定の生態系サービス(例:洪水調節機能、水源涵養機能、土壌保全機能など)の喪失や劣化が、事業にどのような物理的損害やコスト増加をもたらすかを経済的な観点から評価することで、リスクの大きさを具体的に示すことが可能となります。また、事業活動が生態系サービスに与える影響を評価することで、将来的な規制強化や評判低下といった移行リスクを予測する材料となります。
生態系サービス評価をリスク管理プロセスに統合する
企業の一般的なリスク管理プロセスは、「リスクの特定」「リスクの評価」「リスクへの対応」「リスクのモニタリング」といった段階で構成されます。生態系サービスの経済価値評価は、これらの各段階において活用できます。
1. リスクの特定
事業活動が依存・影響を与える生態系サービスを特定し、それに関連する自然資本リスク要素を洗い出す段階です。
- 生態系サービスへの依存度・影響度評価: 自社の事業活動が、水源、土地利用、生物多様性、気候調節といった特定の生態系サービスにどの程度依存しているか、またどのような影響を与えているかを評価します。例えば、製造業であれば水資源への依存、建設業であれば土地改変による生態系への影響が重要になります。
- リスク要素の洗い出し: 依存・影響評価の結果に基づき、生態系サービスの劣化や喪失がもたらしうる物理的リスク(例:洪水、渇水、土砂災害)、移行リスク(例:規制強化、訴訟、評判低下、市場変化)、システムリスク(例:サプライチェーン混乱)といった具体的なリスク要素を特定します。
- 活用ツール: GISやリモートセンシングデータを用いた空間分析、生態系影響評価ツールなどがリスク特定に役立ちます。TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)のフレームワークも、リスク・機会の特定プロセスを体系化する上で有効な手引きとなります。
2. リスクの評価
特定された自然資本リスクが事業に与える影響の大きさと発生可能性を評価する段階です。生態系サービスの経済価値評価が最も直接的に貢献できる部分です。
- 経済価値換算: 生態系サービスの劣化・喪失がもたらす損害(例:復旧コスト、機会損失、罰金、訴訟費用、生産性低下)を経済的な価値に換算します。これにより、自然資本リスクを他の事業リスク(財務リスク、オペレーショナルリスクなど)と比較可能な形で評価できます。
- 発生可能性評価: 生態系変化の予測データや過去の事象、専門家の知見などを基に、リスクが発生する可能性を評価します。
- リスクの優先順位付け: 経済的影響度と発生可能性の評価に基づき、事業にとって重要度の高い自然資本リスクを特定し、優先順位を付けます。
- 活用手法: 生態系サービスの経済価値評価手法(例:代替法、費用回避法、ヘドニック分析法、仮想評価法など)や、リスクマトリクスを用いた定量的・定性的な評価手法が用いられます。
3. リスクへの対応
評価されたリスクに対して、適切な対応策を検討・実施する段階です。
- リスク低減策: 自然資本や生態系サービスの維持・向上を図る活動は、多くの自然資本リスクに対する根本的な低減策となります。例えば、緑地保全、植林、湿地再生、適切な土地利用管理、持続可能な調達などは、物理的リスクや移行リスクを低減します。自然ベースソリューション(NBS)の導入も有効な手段です。
- リスク回避策: リスクの高い事業地域や活動を避ける選択肢も検討します。
- リスク転嫁策: 保険などを用いてリスクを外部に転嫁することも考えられます。
- 対応策の評価: 各対応策の有効性、コスト、生態系サービスへの影響などを評価し、最適な対策を選択します。生態系サービスの経済価値評価は、対策の費用対効果を評価する上でも有用です。
4. リスクのモニタリング
実施したリスク対応策の効果を継続的に評価し、新たなリスクの出現を監視する段階です。
- 評価結果に基づくKPI設定: 生態系サービスの経済価値評価結果に基づき、自然資本の状態や生態系サービスの提供状況に関するKPI(例:特定の生態系サービスの経済価値の維持率、生物多様性指数、森林被覆率など)を設定します。
- 継続的なデータ収集と評価: 定期的に生態系や事業活動に関するデータを収集し、リスク評価やKPIの進捗状況をモニタリングします。
- リスク管理体制への統合: 自然資本リスクの評価とモニタリング結果を、企業の既存のリスク管理委員会や経営会議に定期的に報告し、経営判断に反映させる仕組みを構築します。
建設・不動産事業における自然資本リスク管理への応用例
建設・不動産事業は、土地利用や自然環境への影響が大きく、自然資本リスクと密接に関わっています。生態系サービス評価をリスク管理に統合することで、以下のような具体的な応用が可能です。
- 物理的リスク(例:洪水、地滑り): 開発対象地の周辺生態系が提供する洪水調節機能や地盤安定化機能を評価します。これらの機能の劣化リスク(例:開発による緑地減少)を経済価値として定量化し、開発計画におけるリスク評価に組み込みます。緑地保全や屋上緑化、透水性舗装といったNBS導入が、生態系価値を維持・向上させ、物理的リスクを低減する効果を経済的に評価し、投資判断の根拠とすることができます。
- 移行リスク(例:規制強化、評判リスク): 生態系への大きな影響が予想されるプロジェクトに対し、将来的な環境規制の強化や地域住民・NGOからの反対運動といった評判リスクを評価します。生態系サービス評価を通じて、事業活動が生態系に与える経済的な影響(例:環境修復コストの増加リスク)を定量化し、これを回避・低減するための計画(例:影響の少ない工法の選択、自然保護区域への配慮)に繋げます。
- サプライチェーンリスク: 建設資材(木材など)の調達において、森林破壊や生態系劣化に繋がるリスクを評価します。持続可能な森林管理が行われている認証材の使用など、リスク低減策の経済的な便益(例:ブランドイメージ向上、将来的な調達コストの安定化)を生態系サービス評価の視点から検討します。
生態系サービスの経済価値評価をリスク管理に組み込むことで、これらの潜在的なリスクを事前に察知し、定量的な根拠を持って対策を講じることが可能となり、事業のレジリエンス(回復力)を高めることに貢献します。
まとめと今後の展望
生態系サービスの経済価値評価は、自然資本に関連する事業リスクを特定、評価し、企業のリスク管理プロセスに統合するための強力なツールです。物理的リスク、移行リスクといった多岐にわたる自然資本リスクは、生態系サービスの劣化・喪失と密接に関連しており、その経済的な影響を定量化することで、リスクの大きさを事業の言葉で理解することが可能となります。
リスク管理プロセスへの統合は、単に環境課題への対応にとどまらず、事業継続性の確保、財務の安定化、そして新たなビジネス機会の創出にも繋がります。建設・不動産事業をはじめとする様々な業界において、生態系サービスの経済価値評価を活用した自然資本リスク管理の重要性は今後ますます高まるでしょう。企業は、この評価手法を積極的に活用し、自然との共生を持続可能な事業運営と企業価値向上に繋げていくことが求められています。