エコシステムサービス評価の実践課題と克服策:データ、専門知識、社内合意の壁を越える
はじめに:高まる期待と実践の現実
近年、事業活動が自然環境に与える影響への関心が高まり、生態系サービスの経済価値評価の重要性が認識されてきています。TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)をはじめとする国際的な開示フレームワークの台頭や、ESG投資の拡大を背景に、多くの企業が自然資本に関するリスクと機会を把握するため、評価への取り組みを開始または検討されています。
しかしながら、生態系サービス評価の実践は容易ではなく、多くの企業が様々な障壁に直面しているのも事実です。特に、評価に必要なデータの収集、専門的な知識や人材の確保、社内での理解と合意形成などは、担当者がまず直面する課題です。これらの課題を克服しなければ、評価結果をビジネス上の意思決定や対外的な情報開示に効果的に活用することは困難となります。
本記事では、エコシステムサービス評価を企業活動に取り入れる際に直面しうる主な実践課題を明らかにし、それらを乗り越えるための具体的なアプローチについて解説します。特に、建設・不動産事業といった自然資本との関わりが深い分野での実践を念頭に置き、評価結果を真に価値あるものとするための実践的なヒントを提供します。
エコシステムサービス評価における主な実践課題
生態系サービス評価を成功させるためには、その複雑性と特殊性に起因するいくつかの主要な課題を認識し、適切に対処する必要があります。
1. データの課題
- データの不足と不確実性: 生態系サービス評価には、土地利用、植生、水文、生物種などの詳細な生態学的データに加え、経済価値換算に必要な市場データや代替市場データなどが求められます。しかし、これらのデータが整備されていない地域や、過去の事業活動に関するデータが不足している場合が多くあります。また、生態系の機能に関する科学的な知見にも不確実性が伴うことがあります。
- データの標準化と比較可能性の欠如: 評価対象となる生態系や事業活動の特性は多様であり、取得されるデータ形式や質も異なります。これにより、異なるプロジェクト間や、時系列での比較が難しい場合があります。
- データ収集・管理のコスト: 必要なデータを収集するためには、現地調査、リモートセンシングデータの購入、既存データベースの検索など、多くの時間と費用がかかります。収集したデータを管理・分析するための体制構築も必要です。
2. 専門知識・人材の課題
- 多分野にわたる専門知識の必要性: 生態系サービス評価は、生態学、地理学、経済学、社会学など、多岐にわたる分野の知識を必要とします。特定の評価手法(例: CICES, TEEB, NCA)に関する深い理解も不可欠です。これらの専門知識を持つ人材が社内に不足している場合が多く、育成には時間がかかります。
- 評価結果の解釈と活用スキル: 評価によって算出された経済価値を、事業活動のリスクや機会と結びつけ、ビジネス上の意思決定や戦略策定に活かすためには、評価結果を適切に解釈し、ビジネス文脈に落とし込むスキルが必要です。
3. 社内合意形成・理解促進の課題
- 関係部署間の認識のズレ: 環境部門だけでなく、開発、企画、財務、広報など、様々な部署がエコシステムサービス評価に関わる可能性があります。しかし、部署ごとに評価に対する理解度や関心が異なり、目的や進め方に関する合意形成が難しい場合があります。
- 経営層への説明責任と投資判断: 評価に要するコストや時間を正当化し、評価結果を経営戦略や投資判断に反映させるためには、経営層に対してエコシステムサービス評価の意義、ビジネス上のメリット、費用対効果などを明確に説明する必要があります。従来の財務指標とは異なる「自然資本の価値」を経営判断に組み込むことへの理解を得るには、丁寧なコミュニケーションが求められます。
- 社内文化への定着: エコシステムサービスの価値を考慮する視点を、組織文化として根付かせ、日常的な業務プロセスに組み込むには、継続的な啓発活動やインセンティブ設計なども必要になります。
4. 手法選定と事業への適用性
- 多様な評価手法からの選択: 生態系サービス評価には様々な手法(例: 直接市場法、間接市場法、費用法など)があり、評価目的や対象、データの有無によって適切な手法を選択する必要があります。複数の手法を組み合わせることも一般的ですが、その判断基準や適用範囲を定めることが課題となります。
- 評価結果の事業への関連付け: 算出された経済価値が、具体的な事業活動の意思決定(例: 土地の取得、設計変更、サプライヤー選定)にどのように影響するのか、その関連性を明確に示すことが課題となります。
課題克服のための実践的アプローチ
これらの課題に対し、企業は以下のような具体的なアプローチを検討することが可能です。
1. データ課題への対応
- 既存データの最大限の活用: 自社が保有する土地利用データ、環境モニタリングデータ、過去の調査データなどをまずは収集・整理し、評価に活用できるか検討します。公的機関や研究機関が公開しているデータ、地理情報システム(GIS)データなども有効です。
- 外部データ連携とリモートセンシング活用: 不足するデータについては、外部のデータプロバイダーや研究機関との連携、リモートセンシング技術(衛星画像、航空写真)の活用により、広範囲かつ詳細な情報を効率的に取得することを検討します。
- ベースライン設定の工夫: 開発前の状況など、ベースライン(評価の比較基準となる状態)に関するデータが不足している場合は、近隣の類似エリアの情報や過去の文献調査、専門家の知見などを組み合わせて、信頼性のあるベースラインを設定する工夫が必要です。
- データ収集計画の最適化: 評価目的や予算に応じて、データの粒度や頻度、収集範囲を調整し、費用対効果の高いデータ収集計画を立てます。
2. 専門知識・人材育成への対応
- 外部専門家の活用: 評価手法の選定、データの分析、結果の解釈など、専門的な知識が特に必要となる部分については、経験豊富なコンサルティング会社や研究機関に協力を依頼することが有効です。
- 社内研修・能力開発: 環境部門や関連部署の担当者向けに、生態系サービスや評価手法に関する基礎研修を実施します。専門家を招いたセミナーやワークショップなども有効です。
- 部署横断チームの編成: 環境、開発、企画、財務など、関係部署からメンバーを選出し、部署横断のプロジェクトチームを編成します。これにより、多様な視点を取り入れつつ、評価プロセス全体で知見を共有し、メンバーのスキルアップを図ることができます。
- 専門ツールの導入と活用支援: 生態系サービス評価を支援するソフトウェアやツール(例: IBAT, ENCORE, InVESTなど)の導入を検討し、その活用方法に関する研修やサポート体制を整えることで、専門知識が限定的でも評価プロセスの一部を進めることが可能になります。
3. 社内合意形成・理解促進への対応
- 経営層への具体的なメリットの説明: エコシステムサービス評価が、事業に伴う自然関連リスクの低減(例: 洪水リスク、水不足リスク)、新たなビジネス機会の創出(例: グリーンインフラ開発、認証取得による付加価値向上)、ステークホルダーとの関係性強化(例: 地域社会からの信頼獲得)などにどう繋がるのか、具体的な事例や試算を交えて説明します。財務的なインパクト(コスト削減、収益増加の可能性)を示すことも重要です。
- 早期からの関係部署との連携: 評価プロジェクトの企画段階から、関係する可能性のある部署に声をかけ、目的や期待する結果について対話を行います。各部署の関心や懸念を聞き取り、評価プロセスや結果の活用方法に反映させることで、主体的な関与を促します。
- 成功事例の共有と啓発活動: 社内外の成功事例を紹介するセミナーや、社内報、イントラネットなどを活用した情報発信を行います。従業員向けに、身近な自然環境とエコシステムサービスのつながり、そしてそれが企業活動とどう関係するのかを分かりやすく伝える啓発活動も有効です。
- 段階的な導入とスモールスタート: 全社的な取り組みとして一度に導入するのではなく、特定のパイロットプロジェクトで評価を実施するなど、段階的に取り組みを進めることで、知見を蓄積し、関係部署の理解を深めながら、全社展開の可能性を探ることができます。
4. 手法選定と事業への適用性への対応
- 評価目的の明確化: 何のためにエコシステムサービス評価を行うのか(例: リスク評価、投資判断、報告書作成、地域貢献価値の可視化など)、その目的を具体的に定義することで、適切な評価手法や必要なデータの種類が定まります。
- 事業特性との関連付け: 評価対象となる事業活動(例: 土地開発、インフラ建設、既存施設の管理運営)が、具体的にどのような生態系サービスに影響を与えるのか、また、どのようなサービスから恩恵を受けているのかを丁寧に分析します。その上で、事業との関連性が高いエコシステムサービスに焦点を当てて評価を行うことで、評価結果のビジネス上の意義が明確になります。
- フレームワークの活用とカスタマイズ: TEEBやNCAといった既存の国際的なフレームワークを参考にしつつ、自社の事業や評価対象の地域特性に合わせて、評価のスコープや手法をカスタマイズします。
- シナリオ分析の導入: 将来的な環境変化(例: 気候変動による影響)や事業計画の変更が、生態系サービスの量や質、そしてその経済価値にどう影響するかをシナリオとして分析することで、評価結果をリスク管理や長期的な事業計画に活かすことができます。
建設・不動産事業における克服に向けた視点
建設・不動産事業においては、土地の取得・開発から建築物の運用・維持管理、さらには解体に至るまで、事業のライフサイクル全体で自然環境と深く関わります。この特性を踏まえた克服策が特に重要となります。
- 開発初期段階での評価と設計への反映: 土地取得や開発計画の初期段階でエコシステムサービス評価を実施することで、潜在的な自然関連リスク(例: 法規制による開発制限、生態系への影響によるステークホルダーとの摩擦)を早期に特定し、開発計画や設計段階でリスクを回避または低減するための対策を組み込むことが可能です。これにより、後の段階での大幅な計画変更に伴うコスト増加を防ぐことができます。
- 既存緑地や周辺環境の価値評価: 既存の緑地や周辺に存在する豊かな生態系が提供するサービス(例: 温熱環境緩和、防災機能、景観価値)を評価し、その価値を可視化することで、単なる開発コストだけでなく、敷地や地域全体の自然資本価値向上への貢献を定量的に示すことができます。これは、地域社会や自治体との良好な関係構築や、テナント・入居者への訴求力向上に繋がります。
- サプライチェーンにおける連携: 建設資材の調達や施工プロセスにおける生態系への影響を把握するため、サプライヤーとの連携を強化し、エコシステムサービス評価に必要なデータ収集や影響評価を共同で実施することも有効です。
- 評価結果の認証取得への活用: LEEDやCASBEEなどのグリーンビルディング認証には、敷地の生態系保全や創造に関する評価項目が含まれています。エコシステムサービス評価の結果をこれらの認証取得に活用することで、事業の環境性能を対外的に分かりやすく示すことができます。
まとめ:課題を乗り越え、エコシステム評価を価値創造へ
エコシステムサービス評価の実践には、データ、専門知識、社内合意など、乗り越えるべき多くの課題が存在します。しかし、これらの課題は、適切な準備、外部専門家の活用、関係部署との連携強化、そして何よりも評価の目的とビジネス上のメリットを明確にすることで、克服していくことが可能です。
特に建設・不動産事業においては、事業の特性に合わせた早期の評価導入、既存自然資本の価値評価、サプライチェーン連携などが、課題克服と同時に新たな価値創造に繋がる可能性があります。
エコシステムサービス評価は単なる環境評価にとどまらず、自然関連リスクの管理、新たなビジネス機会の特定、ステークホルダーとの信頼関係構築、そして企業の持続可能な成長を実現するための重要なツールです。課題を一つずつ乗り越え、評価結果を積極的にビジネス上の意思決定や情報開示に活用していくことが、これからの企業経営において不可欠となるでしょう。